土地の魅力

江戸時代に紀伊国(きいのくに)伊勢国(いせのくに)の一部を統治した紀州徳川家。その初代、徳川家康の十男、頼宣は山奥の秘湯、龍神温泉を愛し、和歌山城下より保養に通うだけでなく、施設を整備し地元民の温泉利用を促進。同時に将軍及び領主の遊興・保養施設である「御殿」を造営しました。この龍神御殿は、領内で明治維新まで維持された唯一の御殿で、頼宣が建てた「上御殿」「下御殿」は、現在も旅館として営業しています。

頼宣以来の歴代藩主が、和歌山城から龍神温泉に通った道が「龍神街道」です。

龍神街道の「神野市場」には、高野山へ続く「高野街道」への分岐があり、鎌倉時代より市が開かれ、人々の往来が途絶えることがなかったという記録が残っています。

また「遠井辻峠」には、紀州藩領と高野山領との境界として、人々の往来や物資の搬出入を取り締まる役所が設けられていました。

一方、龍神街道を遠井辻峠から南下すると、清水地域で有田川の流れにぶつかります。有田川は高野山の外輪山のひとつ「楊柳山(ようりゅうさん)」中腹より発し南西に流れます。

龍神街道は、ここ清水で高野山へのもうひとつの道「有田・龍神道」に分岐し、有田川に沿って上流に向かい、やがて高野山に達します。現在の有田川町のシンボル「あらぎ島」も、江戸時代より交通の要所にあったことがわかります。

「きとら農園」の園地は、その様な江戸時代の交通の要所であった、神龍街道、遠井辻峠の近くに位置しています。

かつて空海は、高野山の麓の当園付近でご祈祷をし、田を開いたと伝えられています。そこからこの地は「祈祷田(きとうだ)」と呼ばれ、それが訛り「北浦(きとら)」という地名が生まれました。北浦の地名は現在の国土地理院の地図にも記載されています。

地名の由来は伝説ではありますが、高野山に発する有田川の流れ、江戸期の人々の往来や街道筋を検証すると、遠井地域、清水地域と、高野山との強い関連性を感じざるを得ません。

江戸時代末期の天保年間(1831~1845)遠井に暮らしていた医要木勘右衛門(いおき・かんえもん)が、大粒の実をぶどうの房のようにつける山椒を自宅の庭で発見しました。一般的な山椒よりも香り高く、辛みも強いことから「ぶどう山椒」として育てられるようになったのです。

ぶどう山椒発祥の地であり、空海の伝説が息づく神聖なこの地で、良質なぶどう山椒と桑の葉茶を生産しています。